ただ与えることに喜びを

昨日、気になっている人の1人である坂爪圭吾さんとスリランカ上座仏教長老の神奈川県二宮町で行われたトークイベントに行ってきた。

片道3時間、車内、飽きてしまうこともあったが、
今腑に落ちることがいくつかある。
行ってよかったと改めて思う。

まず、昨日仕事から帰ってくる父親に夕飯を作った話と、その後の話。

昨日朝7時にトークイベントのことを知り、申し込んだため、父親にそのことは伝えていなかった。

伝える必要は特にないけれど、仕事から疲れて帰って来る際、電気のついた温かい部屋で笑顔で人に迎えられ、
温かいお風呂と夕飯が準備されているのと、
ないとでは、大きく違うこと。
そして、それを期待して帰ってくるのと、「あ、誰もいないのか」というちょっとしがっかりする気持ちには
大きな差があるように思う。

だから、夕飯を作って、夕飯のことと出かけることをメールしておこうと思った。

今断食をしている私は、
多分意識的に美味しそうなものを見ることを避けてきていた。
でも、先日の埼玉県小川町でのオーガニックフェスに行き、本当に美味しそうで美しい食べ物を見たとき、そしてそれを頬張る人たちを見ていたら久しぶりに、
食への欲求が溢れてきた。

その認識された欲求とうまく付き合うように、父の夕飯を朝調理した。

食への感謝と欲求が強い分、
父の自分に対する愛情が足りない
(父親に父親自身のことをもっと愛して欲しい)と思っている私は、

どんなものが心を暖かくするか、と想像しながら、
少食な父を想いながら、オーガニックフェスで買った、食べるのがとても楽しみなサツマイモと大好きな玉ねぎを使った味噌汁。
それとにんにくを炒め、玉ねぎ、人参、大根、えのき茸、ほうれん草、長ネギを炒めて、しょうゆとみりん少々、ごま油少々を加えた一品を置いていった。

久々に目の前で食べ物を洗い、切り、炒め、その匂いを味わう。音を味わう。

なんていい匂いなんだろう、って幸せで倒れちゃいそうな気さえした。
でも味見ができない、一人分を作ることが普段なく初めてで、調味料の量が大丈夫かは気になっていた。

でも、夕飯はできた、と安心して家を昼12時に出た。

帰宅し、気になって父に夕飯のことをきく。
私「お味噌汁どうだった?」
父「普通」
その瞬間、あの幸せだった気持ちと、楽しみにしているサツマイモへの愛情、父を想って作った私の愛情と、
"伝わっていない"というなんとも言えない気持ちが混ざり合った。

父「人参がかたかったなぁ」
私「やっぱり。そんな気がしたんだよね、早く火を止めすぎたんだ。」
父「ごはんはなかったよね?」
私「え?ごはんは冷凍したのあるから食べてってメールしたよ?」
父「そんな忙しくてのんびりメール暇ないよ」

心を込めて作った料理に対する感謝もなく、ただ目についた部分を言われている、そんな気がして、

普段母親はこういう父とも付き合っていたんだな、とか、色んな想いが溢れた。
「せっかく心こめて作ったのに!」と言いたくなりつつ(実際、普段作るよりかなり愛情を注いでいた気がする)
私はこうしたんだから、って感謝を"言わせて"も、私は喜びを感じないし、より寂しく感じるだけだとも思った。

そう思ったら、ふっと気づいた。
父に意識が向いたんだと思う。
今日は話すトーンも、書いたように言い方も、なんとなく漂う空気もいつもより重い。

"あ、疲れてるんだ"と思った。
私「今日、疲れてるでしょ?」
父「あ、うん」
私「疲れてる中、迎えきてくれてありがとうね。」
父「ああ、いいよ。」

そう、この年にもなって、30分歩くには遅い時間で、タクシーにはもったいない時間で、仕事で疲れてる父に駅に迎えを頼んでしまっていた。

そうか、疲れてる中、わざわざ車にのって迎えにきてくれたんだよな。

さっきの夕飯に対する反応にショックは完全には拭えないにしても、感謝の言葉を使おうと思った。

私「疲れてるのに迎えきてくれてありがとうね。」
父「いいよ。」
私「次はタクシーで帰るし、言ってね。」
父「ああ、いいよ。」

父は優しい、いいよ、しか言わない。
私とのコミュニケーションがそこまで得意ではないというか、娘と今でもどう向き合えばいいかよくわからない、でも大切に想ってくれてるのが私の父親なんだと思う。

昨日のトークイベントで感じたことと腑に落ちたことを、
今の夕飯の話に関連して言えば、
「見返りを求めない」ということで、言い換えれば、「ただ与えることに喜びを感じよう」ということだ。

相手の反応を自分で期待するから、その反応に相手の実際の反応は届かない時、自分の心が満たされない時に、
勝手に相手に対して敵視したり、マイナス感情を抱く。

ただ相手にとっては、素直な反応なのだ。
味噌汁が普通だったのだってそうだ。相手にとったら黄色い芋(サツマイモと気づいてなかった)と玉ねぎの味噌汁。(しかも、ダシと味噌は入っていても、味見のなされてない味噌汁)

そこに愛情や食べ物に対する厚い感謝というスペシャルスパイスは味と見た目からは分からない。その背景のストーリーを知らなければ伝わらない。

坂爪さんが以前ブログで
「相手に期待することは甘え」みたいなことを言っていたが、それはこういうことに近いのかもしれないと思った。

"相手にこうして欲しい"と願うことは、実は自分がこうして欲しいと願っていることで、言い換えれば自分に対する甘えなのだ、と。

私にとっては、甘えという言葉でなく、相手に期待をかけて、勝手にがっかりするなら、ただ与えることに喜びを感じて、それに対する反応がどうであれ、与えたことの幸せに満たされる人間目指していきたいと思う。

「こう思う、」と実践しながら、「こうなっていた」の間にはものすごく大きなギャップがある。

「ただ与えることに喜びを」と思いながら行動しながら、
実際難しかったり、見返りを無意識に求める自分と向き合いながら、変化成長を楽しんでいこうと思う。

今日もいい日だ。

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どんな世界で、どんな自分として生きたいか

ぽつりと心で呟く。


"美しいものが増えたなぁ。"


雨上がりの公園
雨の雫が光るジャングルジムやシーソー
子どもたちが心躍らせ
大地を駆け巡る姿が浮かんでくる

日が射し
きらきらと優しく光る
草や木々
小さな花

恵みの雨を
大地から味わい
その葉の上に
花びらの上にのせて
ただそこに在る

「世界は自分中心で回っている」

今まで私の中で、
この表現に対する意味合いは、

ネガティヴな意味での自己中心的なものを捉える時に
見聞きしてきた。
自分もそういう意味として認識してきた。

けれど、

世界は本当によくもわるくも
自分を中心に広がっている。

というのは、
心の捉え方の視点で見たら、
自分の見るまま、その通りに広がっているように思えてくる。

例えば、雨。

ただ感情もなく降る雨。
ただ空から降ってくる雨。

それは恵みの雨か、
泥を落とす清らかな雨か、
それとも面倒を増やす厄介な雨か、

それは私が雨をどう捉えるかで初めて、
私にとっての雨の存在が意味を持つ。

昨日の雨は、
心まで鳴り響く美しい音色の後の
自然の音楽としての雨、
そして肌が濡れる、冷たい、
私は生きてる、
と感じさせてくれる存在である雨

私は雨が好き
晴れも好きだし、
曇りも好き。
雷もエネルギーが好き。

でも1番好きなのはやっぱり晴れ。
無条件にみんなを笑顔にしてしまうから。


感情もなく、
ただ存在するだけの雨をそれだけ
様々な意味合いで捉えてしまう

そうしたら
より複雑で感情もあり
成長もでき経験もつめ、
変化だってできる1人の人間を捉える時
どうなるのだろう

「この人はこういう人」
と捉えてしまうことは
氷山の一角をみて判断しているだけに過ぎず、
無意味なことだと見えてくる。

そして、
「こういう人と思われたら」
と分かりもしない他人のラベルを恐れて
生きていくことが無意味だと
私は同時に同じように捉える。

自分がどういう世界で生きたいか。
どういう自分で生きたいか。
それがすべてを物語るのではないかと思う。

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物質的豊かさと精神的豊かさは反比例の関係にある

"物質的豊かさと精神的豊かさ"

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この2つの存在に初めて気が付いたのは、
大学2年生の時。

ボランティアをしにインドへ行った時だった。

当時、大学で貧困問題について学んでいた。

外では蝉が鳴り、
コンクリートからはもやもやと熱気が上がっていた、
暑い暑い夏の日。

「こんなにクーラーの効いた部屋で貧困問題を学んでいる。
表面的に学んでいても、深くは学べない。」

と授業中ふと思い、

地球の歩き方 ボランティアツアー」に一人申し込んだ。

同じく一人でツアーを申し込んだ仲間たちと共にインドへ向かった。


デリーの街についた瞬間、日本が世界のすべてではない、と五感で感じていた。


においも見た目も音も暑さも、すべてが全く違う。

自分の常識や日本の常識が
世界の常識ではないことを感じ始めた。


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その当時私が感じた、

「物質的豊かさと精神的豊かさの違い」はどういう風に捉えていたか。

当時の私は、
インドで印象的だったシーン。

それは、沢山のものはなくとも、
ありのままに生きているように見えた姿だった。

丸出しに干される肉。無邪気に走り回り子どもたちの笑顔。
生と死がありのままにあるように感じた。

一方で、これほどにも物が溢れていながら、一向に完全には心が満たされなかった自分がいた日本という場所。

電車の疲れ切った大人の表情、習い事に忙しく遊ぶ暇ない子どもたち。

何重にも包装されて元がどんな形かさえ分からないスーパーの肉。

生と死がほぼ見えず、まるで隠されているかのように感じた。

それが日本を帰ってきたときに感じたことだった。

そう思う私はどこか、
精神的豊かさのほうが良く、物質的豊かさは悪い、という風にも
正直感じていた。


そして、同時に
私が見ているインドと日本のごく狭い世界、
限られた場所を全てだと信じ込んで極端に比較していたこと、

自分のフィルターを通して世界を見て、それが正しいと信じていたこと、

しかし、そんな私も感じる心 / 感じ取る心、慈愛の心を持って誰かの助けになりたいと親の反対を押し切りインドへ行ったこと、

それさえ今では愛おしく思えるようになった。

自分が時と共に、その時間を共有する人々が変化し、

自分自身が変化し続けていること、

すべてに心から感謝している。

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今朝、「豊かさ」についての映像を見た。

「豊かさ」とは何だろう。

どういうことに対して、豊かだと感じるのだろう。

約6年たった今、何となくわかることがある。


私は今豊かさを感じながら生きている。
それがどんな豊かさというと、

衣食住があることを幸せだと思える心があり、

その中で出会う人々、一緒にいる人々がいて、

美しい自然を味わう心があって、太陽が、空が、雨が、緑が、根が、葉が、
ありがたく、美しくて、

携帯電話やパソコンなど想いを届けるツールがあって、
想いを共有する言語が使えて、、

書ききれないほどに感謝することがあること。

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そして、それらに対して、

「なんてありがたいんだろう。」
「なんてすばらしいんだろう。」

って感謝や愛情があふれだす時、
とてつもなく豊かさを味わい、
感じているのだと思う。

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それは、きっと昔外にその豊かさを求めてきた(物質的豊かさ)
それだけでは満たされるものではなかった。

私の中にあった答え。
私の中の小宇宙の存在。

私自身との内面の対話が始まってから、
形には見えないけれど
大切な沢山の存在が "すでに在る"ことに気づいて、

そこに在ること、
それを味わえること、
それと共に生きていること、

それ自身の喜びを感じられるようになって、

初めて精神的豊かさの本当の意味に気づいたような気がする。

何を探していたかもわからなかったけど、
心が満たされる「何か」をずっと探していた。

でもそれはもうずっと"在った"。

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そして、今の私の”精神的豊かさの本当の意味”は
これからもまた様々な出会いや学び、気づきを通して、
更新され続けていくのだと思う。

そして、溢れていた不要なものを捨てて、
シンプルになってきた今。

物質的豊かさは、
自分が本当に好きで側に置きたいもの、
むしろそれらは少ないのが良くて、

精神的豊かさは、
物質に満たされることから解放されて、
すでに在る豊かさに気付き始めて、
どんどん膨らんでいく。

この物質的豊かさと精神的豊かさは
反比例の関係にあるんじゃないかな。

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私が魔法を使えたら


私が魔法を使えたら

背中に羽根を付けるだろう

朝になったら
太陽が顔を出す前に雲の上まで上がり、

夜になったら
曇り空の上まで上がり、

美しい太陽の神秘さを、
煌めく星空の美しさを、
味わい尽くすだろう

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私が魔法を使えたら

世界中にある全ての武器を
一輪の花に変えるだろう

その花は持つ人の心の芽、
慈悲の芽
優しさの芽
感謝の芽
愛の芽が
見る見るうちに育っていく

その花を受け取った人は、
その花を差し出してくれた人の、
心の芽を全身で感じ尽くす

自他共に幸せを願う気持ちが溢れ出し、
互いに笑顔でいられる優しさが溢れ出し、
この世に産まれてきたことへの感謝が溢れ出し、
自分への愛、人間への愛、自然への愛、
動物への愛、空気への愛、全ての生き物への愛、地球への愛が
胸から解き放たれたかのように溢れ出す

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私が魔法を使えたら

私は枯れることのない愛の泉を
私の心に溢れさせたい

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魔法が使えなければ

羽根を得ることはできない

武器を一輪の花に変えることもできない


けれど、

毎日自然を感じ、その神聖さや美しさを味わうことはできる

一輪の花を与えるように、
自分の心の芽を育て、
慈悲、優しさ、感謝、愛を持って
人や生き物や地球と関わることはできる

魔法が使えずとも叶えることができる


そう私は信じてる。



空に海が広がる日

"When I look at ugliness, I see beauty.

When I am far from home, I see my old friends.

When there is noise, I hear a robin's song instead.

When I am in a crowd, it is the mountain's peace I feel.

In the winter of my sorrow, I remember the summer of my joy.

In the nighttime of my loneliness, I breath the day of my thanksgiving.

But when sadness spreads its blanket and that is what I see, 
I take my eyes to some high place until I find 
A reflection of what lies deep inside of me."

"わたしは醜いものを眺めながら、そこに美しいものを見る。

はるかわが家を離れていながら、故郷の友たちに会う。

うるさい音を聞きながら、
その中にコマドリの歌を聞く。

人込みの中にいても、
感じるのは山の中の静けさだ。

悲しみの冬の中にいて、
思い出すのは悦びの夏。

孤独の夜にあって、
感謝の昼を生きる。

けれど悲しみが毛布のように広がり、
もうそれしか見えなくなると
どこか高いところへ目をやって
胸の奥深くに宿るものの影を見つける"

(引用: 今日は死ぬのにもってこいの日)

今日は、
空にグラデーションが美しい
透き通る海が在る日。

今の数年後に向けてのビジョン

前々から
一つの会社にずっと所属するのではなく、
さまざまな会社に勤めたい気持ちがありました。

それは、
視野を広げて生きていきたい、
様々な世界を体験したい、
という想いからでした。

しかし、ここ数年は、
いくつか自分の柱を持ち、
フリーランスとして働いていきたい気持ちが
常にあります。

それは、どう生きたいか、ということが明確になってきたからです。

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私は、今に夢中になって生きていきたい。私だけのオリジナルの人生。
小さな幸せを感じながら、大好きな人たちと成長していく、私らしい生き方。

では、何を柱にして?となります。

今のビジョンは、
大好きなコミュニケーションとしての英会話と、
自然の中で自分の根幹と繋がる活動、
言葉を生み出すこと、

を掛け合わせていくことです。

英語に関しては、
講師になってからも、
完璧さを求めては苦しむ日々がありました。

しかし今は、
私がしたいことをする十分な力が今在ることに気付き、
専門家を目指さなくてもいい、と
自分で結論づけています。

私が好きなコミュニケーションとは、
知らない人と繋がるコミュニケーション。
深めるコミュニケーションです。

私は知らない人にも日本でも海外でも、
気軽に話しかけてしまいます。

他人から、ただの店員から、ただの教師から、
壁を消し去り、繋がる瞬間がとても好きです。

人と繋がる瞬間がとても好きです。
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一方で、自然の力を借りながら
静寂の中で自分と繋がることもとても好きです。
あの満たされた感覚。
揺るぎなく、穏やかで、心地いい感覚。

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私は"動" という人と繋がること、
"静" を通して自分と繋がることが
私には不可欠であり、

それぞれが今の自分に至らせてくれたのだと強く思っています。

まだ具体的にイメージできていない部分はあります。

けれど、確実に以前と違うことがある。
それは、今を本気で生きるようになったこと。

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日々の濃さが、学びが、気付きが、
周りの人たちが、物事の見え方が、
感じ方が、楽しみ方が、
日々の過ごし方が、人生との向き合い方が、
変わった、ということです。

全てにありがとう。
私と出会ってくださって、
ありがとうございます。

私は、今までで今が一番、
自分らしく生きている。

そして、
一瞬一瞬を味わいながら、
私自身を大切にしながら、
それを更新し続けたいです。

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呼吸と体と心


8月にフィンランドへ行き、
森の中の静寂を味わっていた時、
頭に浮かんだこと

それは
" ヨガ と 坐禅 "だった

すぐにピーンと来たことは

私は

"静" の活動(静寂の中、心と向き合う)を欲していること、
ということだった。

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今までしていた
読書や学ぶこと、人と縁をつなげていくこととは 異なる新しいジャンルだった


それは きっと、
"自分の全てを受け止める"
"どんな感情も無理に蓋をし隠すのでなく味わう"

そして
"自分を愛する"
"全ては私の中にある"
ということを実感し
生きるようになったからだと思う

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だからこのブログを始めた際に
行っていた手放すことが始まり、
より不要なものを無くす、という
核の部分をより感じやすく、
気づきやすいようにする断捨離が始まった

そして ついに
このシルバーウィークで
大自然の中でヨガを体験しに
乗鞍へ行ってきた

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心から尊敬するインストラクターと
知り合ったばかりでありながら気の知れる友人のような方達と

最高の環境の中で行ったヨガ

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指をまっすぐに高く高く空に向ける

目を瞑れば優しく風が髪や肌を撫で

耳には鳥のさえずり、川の流れる優しくも力強い音

足のうらで少しでこぼこした土を感じながら
深く内側を意識した呼吸をしていく


呼吸は深ければ深いほど
不要なメッセージが頭から消えていく


体の中に入る空気が体の隅々まで行き届き
体から出る息は余分なものを体外へ出していく

深く深く
ゆっくりと

私の中の小宇宙を感じながら
じっくりと味わう

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日頃縮こまっている体を
ぐーっと伸ばし、リラックス
じっくり目覚めさせていく
意識をして起こしていく
体の軸を感じていく

自分の心とぴったりくっつきながら、
穏やかな波一つたたない湖のように
心が穏やかに、深く、清められていく


1日の始まりと終わり
人の生涯
月と太陽

それらを感じさせるヨガには
さまざまなメッセージが込められている

乗鞍の大自然の中で
素晴らしい人たちと共に
ヨガを通じて感じた、学んだことは
とても大きかった

心から素晴らしいご縁に感謝。

ヨガ、これからよろしくね
長い付き合いが始まる予感*

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