「丁寧に暮らす」ということ

変化を求められる時代だからこそ、

生活をもう一度見直していきたい*

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普段の行為に一つ一つ注意を払うこと、

それらは 例えば

・ちょっとした心の動き
・普段食べている食事
・発する言葉
・意識していること
・惹かれる/気になる場所・人・こと

など。

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特に私は、

「食」を中心としていきたいと思う。

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でも、もちろん、
全体的に行っていくことが一番いい。

どれも大切だと信じていて、

渦中にいる時や、
余裕がないときは気づけないこともある。

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例えば、

職場で、家庭で、友人関係で、
自分ではどうしようもないことで、

何か想像していなかったことが起きたとき、
その事が自分にとって大切なことであればあるほど、
大切なことが見えなくなることもある。

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だからこそ、

普段から日常に目を向ける。

「丁寧に暮らす」

ことで、自分に敏感になり、

いざという時も自分の一番の味方であり、
信じれる存在であり、
安心できる存在であり、
母であり、心友のような存在であれるようにしたい*

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「食」に関して言えば、

どんな食材身体が求めているか、
どんな食べ物が食べたいか、
どんな野菜に心惹かれるか、
どんな想いで調理をするのか、
どんな気持ちでいただくのか、
いただいてから どんな気持ちなのか、
身体はどう感じているか

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そうして丁寧に、

アンテナを心地よく立てて、

自己対話を繰り返していく。

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同時に、

自分がこの世に生まれてきた意味や、
その食べ物がどんな風にこの世に生まれて、
どんな想いで作られ、
ここまで運ばれてきたのか、

私自身に命を紡いできてくださったご先祖様たちのことを思い感謝したり、


ミクロとマクロな視点を大切にする*

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イメージとしては、

縦横というよりも

球体。和。ハーモニー。調和。共生。
地球。生命。

ホリスティックな視点を大切にする。

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そうすると、

大きく見えていた問題にさえ、

「きっと何か意味があるはずだ」

「何かメッセージがあるんだろうな」

と俯瞰でき、

感謝できる時が来る。

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心が落ち着き、

からだからは不要なものが出ていく。

そして自然と、

自分のからだにもこころにも

いいものを感じ取るセンサーが敏感になっていく*

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ある時期をきっかけに、

「丁寧に暮らす」

ということを意識し、

生活し始めてから、

幸せに感じる事柄が何倍にも増えた。



例えば、

今こうして、

言葉を紡ぎ出せていることがありがたく、幸せであるということ。

文章を書くためのツールがあり、
指があり、
時間があり、
心の余裕があり、
発したい思いがあるということ。

とてもありがたく、
幸せに思う。

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そして家に着いたら、

大好きな料理ができるというワクワクや、
どんな風にこの大好きなことを通して、
将来どんな未来があるだろうと
想像するだけでもワクワクする。


今と未来に、ワクワクする私がいる。

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日常にどれほど感謝と幸せを見つけることができるかは、

私は「丁寧に暮らす」ということを通して、

自分のこころとからだと

対話していくことが

とても大切だと思っている*

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そしてそれは、

誰がどうとかではなく、

自分で感じ取り、

どうしたら自分で自分を満たしてあげるか、

ワクワクすることや、
心地いいと思うもの、
好きなものを選択していくことで、

道がひらけていくのだと信じている*

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*食生活を変えることで地球を想う*

★National Geographic “Before the flood”★

 

*食生活を変えることで地球を想う*

 

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すべてをじっくり観れたわけではないけれど、

映画を見ながら感じていたことは、

 

何年も前から知っていた「地球温暖化」という

地球の叫びに対して、

 

わたしたち人類は

状況を改善させられるほどの具体的な動きが今もできていないという危機感。

 

 

もし、地球に住む一人一人に地球を救うミッションがあったら?と思った。

 

仕事や家庭、

その中で各家庭が一つの地球の問題と向き合っていく、ということ。

 

“生活の改善×何かしらの地球問題”

と向き合い、学び、改善のために何ができるかシェアしていく

ということが出来たらどうだろうか、と考えていた。

 

実際、パリ協定でも具体案が提示されなかったことを考えれば、

それは難しいけれど、あくまで私の理想論。

 

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それは置いておいたとしても、

8年前、私が大学生だった時は、

 

「これは地球温暖化だ」「そうじゃない」みたいな議論があったけど、

今はもうそんな議論をしている暇はなく、

できることをしていく他ないということを痛感した。

 

でも政府は当てにできない。

 

では、今すぐ私何ができるだろう?と思ったら、

 

やっぱり「食」だった。

 

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私一人ですべてを深く知り、研究し成果を出すことは不可能。

知ろうとする行為だけで人生を費やしてしまう。

 

そこで私が取り組みたいと思うのは「食」。

 

食をベースにホリスティックに学び続け、食生活に変化を与えられる人物になって、

私は自分のミッションをやっていきたいと思う。

 

映画の途中、アメリカを例にとり、

レオナルドディカプリオとヂドン博士が対話するシーンがあった。

 

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内容は以下*

 

・政府に頼らず、今日から変えられるのは食生活を変えること。

 

・牛肉について

アメリカでは 土地の47%を食料の生産に使用している。

そのうちの、70%は家畜のえさ。

1%はフルーツ、野菜、ナッツ。

  

牛を育てるのに、必要な土地は鶏に必要な土地の50倍が必要。

 

・牛が餌を食べる際に排出されるメタンの排出量が問題。

メタンは温室効果ガス。

 

・メタンはCo2(二酸化炭素)よりも悪影響。

というのは、メタン分子1個=Co2分子23個分

 

・大気中のメタンの大部分は家畜が輩出したもの

 

・USメタン排出量の10~12%は牛肉の生産によるもの

 

・ハンバーガー1個=60wの電球200時間使用、

エアコン24時間使用、車のプリウス約68時間運転 に値する

 

・牛肉から別のものに変えていく。

かといって、明日からすべてTofuに切り替えようというのは難しい。

例えば鶏に変えていく、量を減らす、

 

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上記が何度か見返しながら私がノートをとったところだった。

 

ここで注意するのは、食生活を変える、というときに、

 

急激にやりすぎないことだとも思った。

 

 

「牛はだめだ!鶏だ!」となると、

 

今度は一気に鶏を多く市場に出すために、ずさんに育てられ、

 

殺されてしまう命が増えてしまうことが想像できるから。

 

 

だから、賢く食生活を変えていくことが大切だと思う。

 

 

そして、「和食は世界を救う」と改めて思った。

 

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家畜の牛からバランスよく食の選択をシフトしていくとき、

もしそのシフト先が、

 

心ある野菜や家畜を育てている農家さんや

酪農家さんのものだったら、

自分で育てた食べ物だったら、

 

と思うと、

どれだけ大きく社会の動きが変わっていくだろうと

想像するだけでも、

とてもワクワクする。

 

 

だってその選択の先は、

健康問題が改善、

教育問題が改善、

労働環境の改善に

 

繋がっていくと思うから。

 

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例えば健康。

 

ケミカルなものではなく、

愛情のこもった食べ物を口にする。

 

食への意識は自分の体への意識とむけられ、

心にも向けられていく。

 

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例えば、教育。

 

自分たちで作った野菜、

触れる土、

感じる風、

甘酸っぱいと感じる味覚、

 

養われていく心と体、

おじいちゃんやおばあちゃん、

お父さんお母さん、

友達と出逢う人々と、

 

「野菜を作った」「動物を触った」「一緒に星空の下で食べた」

という思い出、

つながり、

それらを舌と心でずっと覚えていく。

積み重ねていく。

人とのかかわり方、

命について、

自然について、

土について、

種について、

自分という存在について、

 

野菜に必要な土地の大きさを計算するのに数字を学び、

どうしたら野菜が倒れないかと頭を使い、

どうしたら元気に育つかと科学を学び、

どうしたら、と自分で考える力が育っていく、

 

水やりをし、花を見て、自分の手で育てる喜びを知り、

優しい心が育っていく。

 

舌と心で覚えている、

だから一時期忘れても、きちんと刻まれて、

原点に戻ってくることができる。

 

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例えば、労働について。

 

無農薬で生きた野菜を届ける農家さんの野菜たちが

きちんと評価され、

想いや労働に値するお金が循環していく。

 

農業を潤う。

 

農業が潤うと、森や川の状況もよくなっていく。

 

本業にプラスして、何かを育てていく。

タイムマネジメントを学ぶ。

 

自分で野菜を育て、やりがいが生まれ、

心に余裕が出て、

本業がより回りやすくなる。

 

農家さんは、

良い食べ物を作るために、犠牲になることから解放される。

働くことにより生き甲斐が生まれ、

 

心が喜ぶ。体が元気になる。

 

人々が、街が明るくなる。

 

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もちろんシナリオ通りになんていかない。

でも、

こうした想像はいくらだってしていい。

 

想像しながら、創造にギアチェンジしていくから、

それでいい。

 

 

「食」一つとっても、

 

私の頭の中ではこんな妄想がもくもくと広がり、

本当にわくわくした。

 

そして、私はこの連鎖を作り出す一人で在りたいと思った。

 

だから、

今やっているお家に人を招いて食事をすることや、

学んでいること、

ホリスティックに、栄養、日本古来の食事、江戸の食事、調味料、水や油、

無農薬や無添加のもの、そういうものを提供するお店、

薬膳、睡眠、生活、祈り、

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学びながら実践しているすべてが、

 

私にとって、そして地球にとって、

 

とても大切なことのように感じている。

 

 

そしてそう、「丁寧に暮らす」ということは、

 

ただ自分の心と体を見たし、

生活の基準を高めてくれることに

限ったことではない。

 

それ以上の価値があると信じている。

 

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私は本当に、今の時代に生まれた意味を感じる*

そして私はひとりじゃないことを知っている*

 

 

しかめっ面して、問題ばかり見るのではもうない。

 

こうなったら、こうしたら、もしかしたら、

こーんなことがこうなって、、、

ってどんどんワクワク想像しながら、

 

着眼大局、着手小局に一つ一つ、

丁寧に愛をこめて、

行っていくのだ*

 

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Before the floodを作ってくれた地球人の皆様、

 

そして、シェアして教えてくれた方たち、

 

そして、今こうしていろいろなことが繋がるようになるまで、

 

出会ってくれて学びをくださった皆様、

 

見守ってくれる方たち、どうも、

 

みなさま、ありがとう!!!

 

 

このまま私は進むなりよ(*^▽^*)

 

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たった一人のあなたを生きて

あなたを生きて。
命は有限。
「いつか」は「いつか」で終わる。
何かあるって知ってるなら、気づいてみたら、気づいていたら、やってみて。

そこで必要なのは、勇気と本気の決断だけ。

本当にそれだけ。

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あなたは必ず持っている。
今は見えないだけ。

でも必ず持っている。
でも今は持ちすぎているだけ。

要らないものは全部手から落として、体、心をきれいにして、
日々に幸せと感謝が溢れ出し、
世界が美しく見える。

自分を愛せるようになっている。

愛する家族に、仲間に感謝して、
もうこの上なく幸せだと感謝に溢れ、なんて美しいんだろうって心が喜んで。

それがあなたを待っている。
人それぞれ、タイミングやステージがある。

大丈夫。焦らないで。一つずつ。
そして心の声を聴いて。

直感に従って。
自分を信じて。
そして自分を愛して。
全てに感謝して。
サインに気づいて。

もう私は怖くない。
私はいつこの世を去っても、今悔やむことはない。

でも、まだ死ねない。
これからやることがあるから。

今ここにいる意味を感じながら、また学んでいくことが見えるから。

「いつか」は永遠にこない、
でも「いつか」が必ずくるのは、この体と心がこの世から去る時。

あなたは自分が好き?
あなたの人生が好き?

もやもやする何かがあったら、きっと何かが眠っている証拠。
それが何か知っているか、知らないかはどちらでもいい。

あなたの人生を本気で歩む決意をすること。

そこから全ては動き出す。

全てはあなたが目指す場所に繋がっている。
そしてその場所は、
外にはない。中にある。奥の奥にある。
そして絶対にある。

大丈夫。あなたを信じて。

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ただ与えることに喜びを

昨日、気になっている人の1人である坂爪圭吾さんとスリランカ上座仏教長老の神奈川県二宮町で行われたトークイベントに行ってきた。

片道3時間、車内、飽きてしまうこともあったが、
今腑に落ちることがいくつかある。
行ってよかったと改めて思う。

まず、昨日仕事から帰ってくる父親に夕飯を作った話と、その後の話。

昨日朝7時にトークイベントのことを知り、申し込んだため、父親にそのことは伝えていなかった。

伝える必要は特にないけれど、仕事から疲れて帰って来る際、電気のついた温かい部屋で笑顔で人に迎えられ、
温かいお風呂と夕飯が準備されているのと、
ないとでは、大きく違うこと。
そして、それを期待して帰ってくるのと、「あ、誰もいないのか」というちょっとしがっかりする気持ちには
大きな差があるように思う。

だから、夕飯を作って、夕飯のことと出かけることをメールしておこうと思った。

今断食をしている私は、
多分意識的に美味しそうなものを見ることを避けてきていた。
でも、先日の埼玉県小川町でのオーガニックフェスに行き、本当に美味しそうで美しい食べ物を見たとき、そしてそれを頬張る人たちを見ていたら久しぶりに、
食への欲求が溢れてきた。

その認識された欲求とうまく付き合うように、父の夕飯を朝調理した。

食への感謝と欲求が強い分、
父の自分に対する愛情が足りない
(父親に父親自身のことをもっと愛して欲しい)と思っている私は、

どんなものが心を暖かくするか、と想像しながら、
少食な父を想いながら、オーガニックフェスで買った、食べるのがとても楽しみなサツマイモと大好きな玉ねぎを使った味噌汁。
それとにんにくを炒め、玉ねぎ、人参、大根、えのき茸、ほうれん草、長ネギを炒めて、しょうゆとみりん少々、ごま油少々を加えた一品を置いていった。

久々に目の前で食べ物を洗い、切り、炒め、その匂いを味わう。音を味わう。

なんていい匂いなんだろう、って幸せで倒れちゃいそうな気さえした。
でも味見ができない、一人分を作ることが普段なく初めてで、調味料の量が大丈夫かは気になっていた。

でも、夕飯はできた、と安心して家を昼12時に出た。

帰宅し、気になって父に夕飯のことをきく。
私「お味噌汁どうだった?」
父「普通」
その瞬間、あの幸せだった気持ちと、楽しみにしているサツマイモへの愛情、父を想って作った私の愛情と、
"伝わっていない"というなんとも言えない気持ちが混ざり合った。

父「人参がかたかったなぁ」
私「やっぱり。そんな気がしたんだよね、早く火を止めすぎたんだ。」
父「ごはんはなかったよね?」
私「え?ごはんは冷凍したのあるから食べてってメールしたよ?」
父「そんな忙しくてのんびりメール暇ないよ」

心を込めて作った料理に対する感謝もなく、ただ目についた部分を言われている、そんな気がして、

普段母親はこういう父とも付き合っていたんだな、とか、色んな想いが溢れた。
「せっかく心こめて作ったのに!」と言いたくなりつつ(実際、普段作るよりかなり愛情を注いでいた気がする)
私はこうしたんだから、って感謝を"言わせて"も、私は喜びを感じないし、より寂しく感じるだけだとも思った。

そう思ったら、ふっと気づいた。
父に意識が向いたんだと思う。
今日は話すトーンも、書いたように言い方も、なんとなく漂う空気もいつもより重い。

"あ、疲れてるんだ"と思った。
私「今日、疲れてるでしょ?」
父「あ、うん」
私「疲れてる中、迎えきてくれてありがとうね。」
父「ああ、いいよ。」

そう、この年にもなって、30分歩くには遅い時間で、タクシーにはもったいない時間で、仕事で疲れてる父に駅に迎えを頼んでしまっていた。

そうか、疲れてる中、わざわざ車にのって迎えにきてくれたんだよな。

さっきの夕飯に対する反応にショックは完全には拭えないにしても、感謝の言葉を使おうと思った。

私「疲れてるのに迎えきてくれてありがとうね。」
父「いいよ。」
私「次はタクシーで帰るし、言ってね。」
父「ああ、いいよ。」

父は優しい、いいよ、しか言わない。
私とのコミュニケーションがそこまで得意ではないというか、娘と今でもどう向き合えばいいかよくわからない、でも大切に想ってくれてるのが私の父親なんだと思う。

昨日のトークイベントで感じたことと腑に落ちたことを、
今の夕飯の話に関連して言えば、
「見返りを求めない」ということで、言い換えれば、「ただ与えることに喜びを感じよう」ということだ。

相手の反応を自分で期待するから、その反応に相手の実際の反応は届かない時、自分の心が満たされない時に、
勝手に相手に対して敵視したり、マイナス感情を抱く。

ただ相手にとっては、素直な反応なのだ。
味噌汁が普通だったのだってそうだ。相手にとったら黄色い芋(サツマイモと気づいてなかった)と玉ねぎの味噌汁。(しかも、ダシと味噌は入っていても、味見のなされてない味噌汁)

そこに愛情や食べ物に対する厚い感謝というスペシャルスパイスは味と見た目からは分からない。その背景のストーリーを知らなければ伝わらない。

坂爪さんが以前ブログで
「相手に期待することは甘え」みたいなことを言っていたが、それはこういうことに近いのかもしれないと思った。

"相手にこうして欲しい"と願うことは、実は自分がこうして欲しいと願っていることで、言い換えれば自分に対する甘えなのだ、と。

私にとっては、甘えという言葉でなく、相手に期待をかけて、勝手にがっかりするなら、ただ与えることに喜びを感じて、それに対する反応がどうであれ、与えたことの幸せに満たされる人間目指していきたいと思う。

「こう思う、」と実践しながら、「こうなっていた」の間にはものすごく大きなギャップがある。

「ただ与えることに喜びを」と思いながら行動しながら、
実際難しかったり、見返りを無意識に求める自分と向き合いながら、変化成長を楽しんでいこうと思う。

今日もいい日だ。

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どんな世界で、どんな自分として生きたいか

ぽつりと心で呟く。


"美しいものが増えたなぁ。"


雨上がりの公園
雨の雫が光るジャングルジムやシーソー
子どもたちが心躍らせ
大地を駆け巡る姿が浮かんでくる

日が射し
きらきらと優しく光る
草や木々
小さな花

恵みの雨を
大地から味わい
その葉の上に
花びらの上にのせて
ただそこに在る

「世界は自分中心で回っている」

今まで私の中で、
この表現に対する意味合いは、

ネガティヴな意味での自己中心的なものを捉える時に
見聞きしてきた。
自分もそういう意味として認識してきた。

けれど、

世界は本当によくもわるくも
自分を中心に広がっている。

というのは、
心の捉え方の視点で見たら、
自分の見るまま、その通りに広がっているように思えてくる。

例えば、雨。

ただ感情もなく降る雨。
ただ空から降ってくる雨。

それは恵みの雨か、
泥を落とす清らかな雨か、
それとも面倒を増やす厄介な雨か、

それは私が雨をどう捉えるかで初めて、
私にとっての雨の存在が意味を持つ。

昨日の雨は、
心まで鳴り響く美しい音色の後の
自然の音楽としての雨、
そして肌が濡れる、冷たい、
私は生きてる、
と感じさせてくれる存在である雨

私は雨が好き
晴れも好きだし、
曇りも好き。
雷もエネルギーが好き。

でも1番好きなのはやっぱり晴れ。
無条件にみんなを笑顔にしてしまうから。


感情もなく、
ただ存在するだけの雨をそれだけ
様々な意味合いで捉えてしまう

そうしたら
より複雑で感情もあり
成長もでき経験もつめ、
変化だってできる1人の人間を捉える時
どうなるのだろう

「この人はこういう人」
と捉えてしまうことは
氷山の一角をみて判断しているだけに過ぎず、
無意味なことだと見えてくる。

そして、
「こういう人と思われたら」
と分かりもしない他人のラベルを恐れて
生きていくことが無意味だと
私は同時に同じように捉える。

自分がどういう世界で生きたいか。
どういう自分で生きたいか。
それがすべてを物語るのではないかと思う。

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物質的豊かさと精神的豊かさは反比例の関係にある

"物質的豊かさと精神的豊かさ"

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この2つの存在に初めて気が付いたのは、
大学2年生の時。

ボランティアをしにインドへ行った時だった。

当時、大学で貧困問題について学んでいた。

外では蝉が鳴り、
コンクリートからはもやもやと熱気が上がっていた、
暑い暑い夏の日。

「こんなにクーラーの効いた部屋で貧困問題を学んでいる。
表面的に学んでいても、深くは学べない。」

と授業中ふと思い、

地球の歩き方 ボランティアツアー」に一人申し込んだ。

同じく一人でツアーを申し込んだ仲間たちと共にインドへ向かった。


デリーの街についた瞬間、日本が世界のすべてではない、と五感で感じていた。


においも見た目も音も暑さも、すべてが全く違う。

自分の常識や日本の常識が
世界の常識ではないことを感じ始めた。


*********************************************************


その当時私が感じた、

「物質的豊かさと精神的豊かさの違い」はどういう風に捉えていたか。

当時の私は、
インドで印象的だったシーン。

それは、沢山のものはなくとも、
ありのままに生きているように見えた姿だった。

丸出しに干される肉。無邪気に走り回り子どもたちの笑顔。
生と死がありのままにあるように感じた。

一方で、これほどにも物が溢れていながら、一向に完全には心が満たされなかった自分がいた日本という場所。

電車の疲れ切った大人の表情、習い事に忙しく遊ぶ暇ない子どもたち。

何重にも包装されて元がどんな形かさえ分からないスーパーの肉。

生と死がほぼ見えず、まるで隠されているかのように感じた。

それが日本を帰ってきたときに感じたことだった。

そう思う私はどこか、
精神的豊かさのほうが良く、物質的豊かさは悪い、という風にも
正直感じていた。


そして、同時に
私が見ているインドと日本のごく狭い世界、
限られた場所を全てだと信じ込んで極端に比較していたこと、

自分のフィルターを通して世界を見て、それが正しいと信じていたこと、

しかし、そんな私も感じる心 / 感じ取る心、慈愛の心を持って誰かの助けになりたいと親の反対を押し切りインドへ行ったこと、

それさえ今では愛おしく思えるようになった。

自分が時と共に、その時間を共有する人々が変化し、

自分自身が変化し続けていること、

すべてに心から感謝している。

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今朝、「豊かさ」についての映像を見た。

「豊かさ」とは何だろう。

どういうことに対して、豊かだと感じるのだろう。

約6年たった今、何となくわかることがある。


私は今豊かさを感じながら生きている。
それがどんな豊かさというと、

衣食住があることを幸せだと思える心があり、

その中で出会う人々、一緒にいる人々がいて、

美しい自然を味わう心があって、太陽が、空が、雨が、緑が、根が、葉が、
ありがたく、美しくて、

携帯電話やパソコンなど想いを届けるツールがあって、
想いを共有する言語が使えて、、

書ききれないほどに感謝することがあること。

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そして、それらに対して、

「なんてありがたいんだろう。」
「なんてすばらしいんだろう。」

って感謝や愛情があふれだす時、
とてつもなく豊かさを味わい、
感じているのだと思う。

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それは、きっと昔外にその豊かさを求めてきた(物質的豊かさ)
それだけでは満たされるものではなかった。

私の中にあった答え。
私の中の小宇宙の存在。

私自身との内面の対話が始まってから、
形には見えないけれど
大切な沢山の存在が "すでに在る"ことに気づいて、

そこに在ること、
それを味わえること、
それと共に生きていること、

それ自身の喜びを感じられるようになって、

初めて精神的豊かさの本当の意味に気づいたような気がする。

何を探していたかもわからなかったけど、
心が満たされる「何か」をずっと探していた。

でもそれはもうずっと"在った"。

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そして、今の私の”精神的豊かさの本当の意味”は
これからもまた様々な出会いや学び、気づきを通して、
更新され続けていくのだと思う。

そして、溢れていた不要なものを捨てて、
シンプルになってきた今。

物質的豊かさは、
自分が本当に好きで側に置きたいもの、
むしろそれらは少ないのが良くて、

精神的豊かさは、
物質に満たされることから解放されて、
すでに在る豊かさに気付き始めて、
どんどん膨らんでいく。

この物質的豊かさと精神的豊かさは
反比例の関係にあるんじゃないかな。

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私が魔法を使えたら


私が魔法を使えたら

背中に羽根を付けるだろう

朝になったら
太陽が顔を出す前に雲の上まで上がり、

夜になったら
曇り空の上まで上がり、

美しい太陽の神秘さを、
煌めく星空の美しさを、
味わい尽くすだろう

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私が魔法を使えたら

世界中にある全ての武器を
一輪の花に変えるだろう

その花は持つ人の心の芽、
慈悲の芽
優しさの芽
感謝の芽
愛の芽が
見る見るうちに育っていく

その花を受け取った人は、
その花を差し出してくれた人の、
心の芽を全身で感じ尽くす

自他共に幸せを願う気持ちが溢れ出し、
互いに笑顔でいられる優しさが溢れ出し、
この世に産まれてきたことへの感謝が溢れ出し、
自分への愛、人間への愛、自然への愛、
動物への愛、空気への愛、全ての生き物への愛、地球への愛が
胸から解き放たれたかのように溢れ出す

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私が魔法を使えたら

私は枯れることのない愛の泉を
私の心に溢れさせたい

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魔法が使えなければ

羽根を得ることはできない

武器を一輪の花に変えることもできない


けれど、

毎日自然を感じ、その神聖さや美しさを味わうことはできる

一輪の花を与えるように、
自分の心の芽を育て、
慈悲、優しさ、感謝、愛を持って
人や生き物や地球と関わることはできる

魔法が使えずとも叶えることができる


そう私は信じてる。