いのちって

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4月末、ゲストさんからお蚕さんを分けていただいた。

私は蚕自体に触れたことも、見たことも今までなかった。

大きな丸々と太った白い幼虫、
絹を作ってくれる貴重な幼虫、
それくらいしかイメージがなかった。

大きくなったら、どうしようかな、と
幼虫が得意でもなかったから
思いつつ、桑の葉をあげていた。

でも、お蚕さんの素晴らしさを
知っている人は大概魅力的な方たちで、
お蚕さんについて語っている時は
目は輝いていた。

だからからか、
私も自然と、
お蚕さんに毎日桑の葉をあげながら、
驚くくらい成長していくお蚕さんを
愛おしく感じるようになっていった。

はじめは黒い点くらいしかなかったのに、
一ヶ月も経ったら、白くて、
食べるとシャキシャキ音が鳴って、
それを聴くのが好きだった。

眠る時は
ぴーんと硬直して、
その姿勢がなんだか可笑しくて。

どこが目だか、
模様だかわからないけど、
目みたいなのを見て

しゃりしゃりしゃり

ぴーんと寝て、

ぷりっとうんちして。

また、しゃりしゃりしゃり。

食う 寝る 野ぐそ だなぁ、
と眺める時間もたのしかった。


そんなお蚕さんも、
糸を出し始めて、
ぐるぐる身体の周りに
白い糸を囲んでいって

繭の中に入っていった。

旅立ちのとき。


そんな蚕たちが入った繭。

糸を紡ぎ出すなら、
そのままお湯で茹でる必要がある。

もしくは、蛾になることを待つ。

でも、蛾になっても、
現代の蚕は、シルクの生産に合わせて、
繭を取るために"作られている"ため、
蛾になったら、
あの桑の葉を、
かしかし、と食べていた口もなく、
体が重いために飛ぶこともできない、
他のスタッフの子から教えてもらった。

みんなで話した上で、
蛾になるまで待つことにした。

そして1ヶ月近くたった今日、
蛾になっていた。

久しぶりに再会したような気持ちだった。

でも、知ってはいたけど、
蛾になったら蚕たちには口もなくて、
一生懸命にパタパタパタパタ羽を動かしているのに、
体が大きくて全く飛ぶこともできない。

もう息絶えていた子もいた。

ああ、命ってなんだろう、
人間ってなんだろう、

頭ではわかっていつつも、
目の前の蛾になった蚕たちを見ていたら、
なんとも言えない気持ち、

哀しさや可哀想だと思う気持ち、
人間って、
遺伝子を "組み換える" ってなんなんだろう、
いのちって、なんだろうって
と言葉が頭を舞っていた。


今の時代は生産性が求められ、
その分、人間の都合のいいように
多くの生き物の
手の加えられたいのちが存在する。

いのちを頂く上で、
「痛みを知る」ということ、
「真実を知る」ということ、

その上で感謝して、いただき、
いただいた命を感じながら、
日々を生きるということ。

多くの犠牲の上にある、
でも言い換えれば、
多くの命が自分の命のために
その命を分けて頂いているということ。

植物も、魚も、動物も。

痛みを知り、学び、感じ、進化する。

そんな生き物は地球上で
どのくらいいるのだろう。

詳しくはわからない、
けれど人間である私たちはそれができる。

色々な進化を遂げてきた。
いろんな命、
いのち。

いのち を輝かせる
いのち を燃やす
いのち は尊い
いのち は儚い

いのち
いのち

いのち って聞いて浮かんで来る言葉たち。

いのち、

いのちについて感じる、考える。

お蚕さん、どうもありがとう🌸
そして ごめんね。